1926年、まだ多くの女性が教育の機会を与えられなかった時代に、「三田尻高等女学院」として本校は生まれました。
「至誠一貫」を建学の精神として掲げ、より多くの女子に教育の機会を与えたい、誠の心を持って高い志を貫き通す大切さを教えたい、と創立者は溢れる夢と情熱を持ってこの学校を誕生させたのです。その後、世界大恐慌や戦争など、激動の時代を経験することがありましたが、男女共学となりグローバル社会の中に生きる今の時代も、本校のDNAである「至誠一貫」の精神に基づく教育は変わらず、時を超えて生き続けています。

創立までの経緯

本校は、1926年、元号が大正から昭和に変わった年に、米澤菊五郎を代表とする9人の創立チームによって、「三田尻高等女学校」として設立されました。
本校創立者代表・初代校長である、米澤菊五郎は、1869年、明治維新直後に生まれ、生涯を教育に捧げた人物でした。当時、女子の教育は「有害無益」と言われ、十分な教育の機会を与えられませんでした。米澤菊五郎は、多くの向学心旺盛で優秀な女子たちが、学びたい意志を強く持っているにも関わらず、諦めざるを得ない状況を目の当たりにし、心を痛めていました。そして、これを救済するためには、私立高等学校を興すしかないと、意志を固めました。
当時、佐波郡高等女学校(現在の防府高等学校)の初代校長を勤めていた米澤菊五郎は、定年と同時に、私立高等学校創立のため本格的に動き出しました。まず2名の人物に声をかけました。一人は、佐波郡立高等女学校時代に教頭であった、中田官次、もう一人は、医師であった、神徳一人でした。そして、この3人で創立業務を具体的に進めていきました。

創立者代表・初代校長
米澤菊五郎

人は、学校設立を確実なものとするために、創立委員として加わってくれる人材を探しました。そこで加わったのが、医師であった柳義雄と内田小弥太、そして人徳を備え、顔も広かった写真家、白石権四郎でした。 6名となった創立チームは、今後、官庁との折衝や世間からの協力を得るためには、もっと知名度の高い人物が必要だと考えました。そこで、内田小弥太が、旧右田藩主、毛利祥久と、西日本で有名な画伯であった、田中伯陰(田中啓三郎)と交渉にあたり、快諾を得ました。

最後に創立委員となったのは、初代理事長となった、元陸軍中将・佐波郡教育会長、山田四郎でした。彼は、白石権四郎が、学校設立のために献身的努力をしている姿に深く感動し、自分も貢献したいと、即、創立委員として立候補したと言われています。

こうして、「もっと多くの女子に教育の機会を」という一人の人間の願いが、他の人の心を動かし、9人の創立チーム、MITAJIRI NINEができました。そして、チームとしてより強固な意志を持って、学校設立を実現しました。

  • 山田四郎

  • 中田官次

  • 神徳一人

  • 柳義雄

  • 内田小弥太

  • 白石権四郎

  • 毛利祥久

  • 田中伯陰
    (田中啓三郎)

  • 正門入ってすぐ左に位置する
    初代理事長山田四郎の石碑

  • 創立当初、授業と始まりと終わりを
    知らせるために使われた鐘

  • 創立当初の校旗

  • 創立当時の校章

建学の精神

本校創立者代表・初代校長の米澤菊五郎は、誠を信じることに命をかけた、吉田松陰の「至誠一貫」の精神と生き方に深く感銘し、建学の精神を「至誠一貫」とし、校訓にも定めました。「至誠一貫」とは、「誠の心を持って、高い志を貫き通すこと」で、もともと中国の思想家、孟子の言葉でした。
米澤菊五郎は、「男女かかわらず、人間教育の中心となすものは、至誠である。誠の心を持って高い志を貫き通す精神を培うことこそ、時代を超える真の教育である。」と考えたのです。
創立委員の山田四郎と白石権四郎は、このすばらしい校訓を著名人に一筆書いていただこうと、東郷平八郎にお願いに行きました。東郷平八郎は、日露戦争を勝利に導いた、日本国内だけでなく世界的にも有名な元帥海軍大将です。彼は、何かのために一筆といった類のことを、一切しない人として有名でしたが、ダメで元々と、二人が訪ねて行ったところ、意外にも即座に快諾されたそうです。この裏には、本校創立の協力者であり、東郷平八郎と日露戦争を通じて親交の深かった、海軍中将吉川安平の存在が大きかったと言われています。

  • 「至誠一貫」の精神で誠を生き抜いた
    吉田松陰

  • 元帥海軍大将
    東郷平八郎

  • 東郷平八郎直筆の「至誠一貫」の書

学校設立の協力者たち

本校創立のために、創立委員が奔走する中、他にもいろんな著名人の方々の協力がありました。
当時の内閣総理大臣・田中義一、文部大臣・三土忠造、海軍中将・吉川安平、満州鉄道総裁・松岡洋右、台湾総裁・上山満之進、連合艦隊参謀長・寺島健、代議士・児玉篁南(児玉右二)、山口県知事・大森吉五郎など、まさにそうそうたる顔ぶれでした。
ここまでの人物が集まるのは、稀かつ名誉なことであり、それが可能となったのは、創立メンバーの高い志と誠の心に、これらの協力者たちが心を動かされたからに他なりません。こうして、本校が誕生したのです。

  • 内閣総理大臣
    田中義一

  • 文部大臣
    三土忠造

  • 海軍中将
    吉川安平

  • 満州鉄道総裁
    松岡洋右

  • 台湾総裁
    上山満之進

  • 連合艦隊参謀長
    寺島健

  • 代議士 児玉篁南
    (児玉右二)

  • 山口県知事
    大森吉五郎

創立当時から本校を見守り続ける藤の木

現在の校長室南側の中庭にレンガ造りの藤棚があり、年輪を重ねてひときわ存在感のある藤の老木が存在しています。根元が大きくうねっているのが特徴的なこの藤の木は、創立以来、数々の生徒たちを見守りながら、毎年紫の花を咲かせています。
創立当時、正門を入って右方向に玄関があり、玄関に向かって右手に白い藤棚、左手に紫の藤棚がありました。白い藤棚は校長室に面し、紫の藤棚は職員室に面して、夏の強い西日を和らげていました。
その後、幾多の年月を経て、紫の藤だけが生き残ったそうです。学校が安定期に入っていた1985年頃のとある日、この藤に突如受難が訪れました。

藤の木の枝が切りとられ、丸裸にされ、まさに焼却炉に投げ込まれようとしていました。そこへ通りかかったのは、学校と深く関わり、学校の歴史と共に年を重ねた原田房雄さんでした。「こりゃー、学校創立のときの藤の木じゃ!」と、すぐさま駆けつけ瀕死の藤を助け、右田にある第二校地に移植しました。 数年に渡る手厚い世話のおかげで、瀕死の藤は息を吹き返し、1994年には、生まれ故郷に戻ってきました。そして、1999年には、甦った藤棚の下で、お茶会が開かれました。今となっては、学校創立当時のことを知る人はいませんが、この藤だけは本校創立当初からずっと私たちのことを見守り、今でも毎年たくさんの紫色の花を咲かせてくれています。

激動の時代

二代目校長
中野貞介

校内の北西にある殉国諸嬢顕彰之碑

本校創立後、日本を取り巻く状況は次第に激動への道を辿ることになります。1929年には、世界恐慌が起こり、生徒が激減し始め、学校経営に多大な影響を与えました。1931年には満州事変、翌年には上海事変が勃発し、1937年には日中戦争へと発展し、中国大陸での戦争は本格化して行きました。そして、1941年には世界中を巻き込むこととなる太平洋戦争が始まりました。

1937年に、初代校長米澤菊五郎から二代目校長中野貞介氏に代わりましたが、その後の10年間は、学校をあげて戦争の嵐に巻き込まれました。本校の若い先生方も出征し、戦場へ行くようになりました。
1944年には、光市にある光海軍工廠という軍需工場において、本校女子生徒140名が動員され、過酷な労働を強いられました。1945年8月14日には、光海軍工廠が爆撃を受けて、本校の女子生徒8名の尊い命が失われ、多数の負傷者が出ました。

祖国のために尊い命を捧げた8名の生徒のご冥福を祈るため、1967年には、本校と同窓会有志の協力により「殉国諸嬢顕彰之碑」が建てられ、除幕式が挙行されました。顕彰碑の表には、元内閣総理大臣 佐藤栄作氏の筆による「殉国諸嬢顕彰之碑」の文字、裏には中野貞介校長の短歌三首の文字が刻まれています。今でも、校内の北西に位置し、毎年8月には、殉国諸嬢慰霊祭が行われています。

本校のスピリット「暗香不動」と躍動の時代

三代目校長 米澤理

校内の西に位置する暗香不動の石碑
石碑の横には梅の木が寄り添っています

現在も続く本校の伝統、静思抄

1968年(昭和43年)、米澤菊五郎の子息にあたる米澤理が第3代校長に就任しました。米澤理校長は、1934年に本校に着任して以来、創立期、戦時体制期、学園復興期、充実期に至る34年間に渡る困難な時代に、本校と苦楽を共にしました。特に、日中戦争、第二次世界大戦における三度の応召の経験は、命の尊厳を実感させ、奉仕と自己犠牲を基盤とした教育観によって、新たな教育改革への挑戦を行いました。

まず、人間性の育成において、建学の精神「至誠一貫」を現代に活かすために「暗香浮動」をスクール・スピリットとして掲げました。
「暗香浮動」とは、「黄昏のほの暗い中でも、良い香りがただようものとして、その存在を示す梅の香りの如くあれ」という意味から、正直・誠実・勤勉・責任感・信頼・礼儀・親切などの徳目を人間育成の要とし、心清らかで気品ある人になれ、ということです。

そして、将来のグローバル化時代を展望した教育方針として、国際理解教育を推進しました。1973年より、ロータリークラブによる交換留学生制度を導入し、その後25年間でアメリカ、カナダから11人の留学生を受け入れ、本校からも10人の生徒がアメリカの高等学校に留学し、日米間の相互理解を深めました。ユネスコ、ガールスカウト、インターアクト各クラブの活動実績は国際的な評価を受け、特にインターアクトクラブは1975年「世界理解運動」の優秀校として国際ロータリー賞を受賞しました。

さらに、個性を活かす学芸指導として、「静思抄」が設けられました。「静思抄」は、徳育の一環として、物事を行ったときに、深く自分を省みることを習慣付けるために記す手帳で、先生と生徒との間のコミュニケーションとしても使われ、この伝統は今でも続いています。

本校のさらなる発展へ向けて

「スポーツの三田尻」としては、ワンダーフォーゲル部がインターハイと国体で7回の全国優勝を決めました。伝統あるバレーボール部は、毎年全国大会出場を果たし、特に2000年から2001年にかけてのインターハイ、国体、春高バレーでは、4冠を果たしました。バスケットボール部も活躍し、Winter Cup 1993では全国準優勝の快挙を成し遂げました。

2003年には、男女共学となり、それに伴い学校名が「三田尻女子高等学校」から「誠英高等学校」に変わり、科・コースの改編が行われました。「誠英」には、「誠の心を持って、世界にひいでる」という意味が込められています。また、通信制普通科が開設されました。

1980代に入ると、本校は「文化の女子校・スポーツの三田尻」をスローガンに掲げ、部活動を通して、文化面、スポーツ面をさらに発展させて行きました。
「文化の女子校」に相応しい活躍としては、インターアクト部の活躍、弁論作文の全国大会優勝、珠算部の県優勝、理科部の「金属化合物の性状に関する研究」で日本学生科学賞受賞などがありました。また、自然研究部も活躍し、「ニホンザル研究」で日本学生科学賞、「アカネズミ研究」で金賞・江崎玲於奈賞、日本サイエンスジャンボリーで最優秀賞を受賞しました。